※本記事は2017年5月7日に投稿した記事ですが、後日田中さんの出身地が江別ではなく、「遠別」であることが、関係者の方からの連絡でわかりました。元記事の記者さんの聞き間違えであったとのことです。田中さんにとってはひさしぶりに使った日本語であったため、発音が聞き取りづらかったのかもしれません。
インターネットで江別のニュースを調べていたら、あるニュースが検索トップに出てきました。
ロシアに残った日本兵、「残ったこの片目で日本が見たい!」
ん? このおじいさん、江別遠別出身なのか….!!!!
記事を読んでいくと、名前はピョートル タナカさん。日本にいた時はタナカ アキオさん。1927年 江別遠別生まれで今年(2017年)で90歳になるという。ロシア在住のピョートルタナカさんは、17歳で戦地に赴いて以来日本に帰っていなく、日本を見たい・日本の桜をみたい・親族に会いたいと願っているという。
タナカ・アキオさんは、1927年北海道の江別に生まれた。父のタナカ・トミイチ氏は、江別と札幌に旅館を所有していた。母は、アキオさんが幼い時に亡くなっている。その後、父は再婚。アキオさんと継母との関係はうまくいかなかった。17歳になり学校を終えるとすぐ、彼は、志願して関東軍に入隊、彼本人の言葉によれば、前線では死を恐れぬ戦いぶりで、金の星の勲章をもらい、軍曹となった。1944年彼は、砲弾の破片で負傷し、片眼が見えなくなった。そして1945年8月、関東軍60万の将兵と共に、ソ連軍の捕虜となり、中国からハバロフスクに送られた。
現在タナカさんは、ポギ村の小さな一部屋のアパートに一人で住んでいる。その長い人生の間、彼は何度か結婚したが、すべての妻に先立たれた。子供達については、語ろうとはしなかった。彼が頑固に話そうとしなかったのは、このテーマだけだった。
日本から離れ長い年月が流れたが、タナカさんは、自分の日本の親族を見つけたいとの希望を失ってはいない。彼は、次のように述べている-
「1970年代に、レニングラードの日本総領事館に行って、自分の身の上を話したことがあった。領事館は、日本に連絡し調べてくれた。それにより、父は大分前に亡くなっていることが分かった。姉妹に手紙を書いたが、返事は来なかった。恐らく今も、私を裏切り者だと思って、許せないのだろう。我々の習慣では、捕虜となった者の家族は皆、私を恥と感じるからだ。」
色々な人生があるものだ。姉妹やその子供や孫たちが北海道・日本でおそらく暮らしているだろう。ひょっとすると江別に住んでいるかもしれない。
若い頃のピョートルタナカさん。
第2次世界大戦終結から70有余年が過ぎた現在、90歳の誕生日を前に、タナカさんは、祖国をひと目見たいと願っている。日本総領事館は、日本国内でタナカさんの親族を見つけ出そうと努め、地元の慈善団体は、タナカさんの祖国訪問実現に向け、資金集めを始めている。
この記事では慈善団体がタナカさんの日本訪問を実現へ向けて資金集めをしていると書いている。
もし日本へ来るなら生まれ故郷の江別と札幌ヘは帰って来たいはずだろう。
1927年生まれならば、町村牧場や王子製紙があり、江別が栄え始めた頃だろうか?
田中さんに今の江別を見てもらいたい。実際に江別へ来ると、景色は変わっていてもしばらく思い出せなかった思い出が湧き出てくるかもしれない。
タナカさんと一緒に江別を眺めたいとこの記事を読んで思いました。タナカさんが日本に来れるよう祈っています….!
ロシアに残った日本兵「残ったこの片目で日本がみたい!」
Sputnikより